昭和48年09月13日 朝の御理解



 御理解 第56節
 「日にちさえたてば世間が広うなって行く。ひそかにして信心はせよ。」

 ここのところ日にちさえ経てば世間が広うなって行くと、言うところが例えば、人に同情されたり又は人から本当に気の毒な事だ、可愛想な事、だと言われるようなとき例えばその同情に乗るようなことがあってはならぬと、と言うことは次ぎのひそかににして信心せよと言うところから、そんな風に感じます、様々なときがあります。
 例えば私どものように信心を頂いておりましても、あんなに信心しよんなさってどうして、あんな不幸な事が続くだろうかと、どうしてあんなに貧乏しなさらなきゃならんのだろうかと、言うときの事を思うて見て、ほんとに人が見て気の毒だと又は可愛想だと同情をよせて下さる時代がありましたけれどもそれに便乗する事なしに、そう言う時にいよいよ一人ひそかにして信心ができたように思うです。
 本当にこの世の不幸はもう、私一人私の一家で受けとるんじゃなかろうかと、結局不幸な難儀なときには自分がこの世で一番不幸せと言う様な思いがするものです、けれども信心させて頂いておると、そう言う所がですねもう普通では出来なかった信心が、おかげで出来ますと言う事になる。私は信心はそこまで行かにゃいかんと思う、そう言う例えば、難儀な困ったことそう言う、人から本当に同情される様な時にです。
 そう言う事であればある程に、そう言うおかげで一人それこそしみじみとした、信心が出来ます、おかげで信心ができますと言うような信心を、ここでは教えられとるんじゃなかろうかとね、例えば難儀なところを通らせて頂いて、例えば日々が経って行く内にいうならば人の噂も七十五日と言う事がありますが、もう人がとやこう噂するような事でもいつの間にか人が噂せんようになる。
 ならたとえば人から後ろ指を差されるような事が起こりましても、それこそ肩身の狭い思いで毎日過ごさねばならん様な事があってもです、日々さえ経てば世間が広うなってくると言うそう言う意味じゃないと思う、そう言う感じがしますけれども、ここでは。ではそう言う場合であっても、肩身の狭い思いをせなければならん場合であってもです、そう言う時であればある程です、一人ひそかに信心すると言う事がです、尊いおかげいうなら世間が広くなって来ると言う事に繋がるのだと思います。
 例えば次ぎの五十七節を頂くと「金の杖をつけば曲がる、竹や木は折れる、神を杖につけば楽じゃ」と、どんなに気丈な人であってもです、やり抜かずにはおこうかと、この難儀をひとつ切り開かずにはおこうかと、いったような例えば却って元気を出して、勉強したり働いたりする人もあります、だからそう言うのではない。ここんところひとつひそかにして信心すること。
 こう言う事で世の中の落伍者になってはならない、と言った様な踏んばりとか頑張りではない、そこんところが例えば金の杖をつけば曲がる、竹や木は折れると仰る、竹や木のことだ、ここの竹と言う事は、素直、どんなにあの人は素直な、仏様のような人だと言ってもです、難儀が続くと言うとどうした事であろうかと、世間で言う様な事がある。あの人は中々気丈な方だ、木は折れるどんなに気丈な人であっても、それこそもう私も自信をなくしたと言ったような事に直面することがあるんです。
 だからいくら気が強かっても、その気は折れるのだ、なら金があるからと言うて金の杖をつけば曲がる、金とて使えば減るものなくなってしまうもの、自分が気丈だと言うて自分自身に、自分の腕で行こうと言うのは我である。あの人はどんなに善い人、それこそ竹の様に素直な心を持った人と言ってもです、難儀な事が続いたらどうした事であろうかと、信心しておかげは別ものと、別のご理解にあります様に、その信心しておかげを受けると言う事の、ひそかにして信心をせよと言う事になるのじゃないでしょうか。
 ひそかにして信心せよと言う時にです、私共は神を杖につけば楽じゃと言う、信心をひそかにして信心をせよと言う事は、そう言う時に神を杖につけば楽じゃと言う、お徳と力を受けなければならない時だと思うです。神を杖につけば楽じゃと仰せられるが、沢山な信者があるけれども果たして、神様一心に縋っておるから楽と言う人がどのくらいあるだろうか、信心はしよるお縋りはしょるけれども。
 一つも楽じゃない不安でたまらん心配でたまらん、いらいらしてこたえんと、腹がたつとそれでは神を杖についていない証拠だと、まずは知らなければいけません、いくらお参りしよってもいくら拝みよっても、心が楽でないならば未だ未だ神様を信じ切っていない神様を杖についてはいないんだと、そこでいよいよ神様を信じて神を杖にして、行けれる日々が有難いと言う事になって来なければいけない。
 その神様、神様は間違いのないお方じゃなあと、神様と言うお方は有難いお方じゃなと、分るのは私は一人ひそかにして、信心しなければならないようなときに、そう言う信心が身についてくるのじゃなかろうか、人がとやこう言う時でも、只神様だけが御承知の世界に生き抜くと言う生き方、又人から同情されたり、可愛想といわれるような時に、ちよっと聞いて下さいと涙ながらに又自分の難儀な事を、人に聞いて貰わなければ胸が晴れんような信心じゃつまらんです。
 それこそ悩みもあろう苦しみもあろうけれども、それは神様に一心にお縋りさせて頂いて、そこからです神様の間違いなさを、神様の働きを心の上にも形の上にも頂き現していきながら、おかげを頂くから神様と言うお方はなんと言う有難いお方であろうか、間違いないお方であろうかと言うものが、愈々身について来る。だから神様さえ放さんでおけば大丈夫と言う生き方が、神を杖につけば楽じゃと言う事になる。
 だからそう言う私共でもやっぱりそう言う一番難儀な時にです、本当に神を杖についたおかげで誰に頼り彼に頼りこの苦しい時に、人に聞いてもらわにゃと言う事でなく、苦しい事だけは神様に申し上げて行ったところにです、なら今日私がです、成程神様を杖についておれば楽じゃと言う心が開けてきて、その楽じゃと言う心にです、本当に楽なおかげが頂けたんじゃなかろうかと思うんです。
 そこで私は昨日夜の御祈念の後に話さして頂いたんですけれども、とにかく願いが純粋になる、しかも、神様が喜んで頂くような、しかも大きな信心にならなければいけないと思う、いうならば今皆さんが願っておられる、合楽教会大発展と言う様な事、本当に自分の苦しい事は棚に上げて、これは棚に上げんでんお取り次ぎを頂いて、棚に上げた心持ちで親先生にお任せする気持ちで、私は合楽教会の大発展を祈ると言う気持ちになってくると、それが本当の祈りになって来るとです。
 悩みとか苦しみとかは非常に軽いようになって来るです。いやむしろ元気が出てくるです、こう言う素晴らしい願いを立てておるのであるからです、この位の修行はもう当たり前と言う事になってくる、だから問題は本気で合楽教会大発展を祈っておるか、願っておるかなんです。例えばとりわけですよ、ひそかにして信心せなければならないような時にです、そう言う信心を身につけて行ったら、これは素晴らしい神を杖につけば楽じゃと言うことになってくるです、もう不平不足を言わんで済む。
 例えば合楽の田中さんが、幹三郎があした肉腫の病気で死ぬか生きるかと言う時、通っておるとき皆さんも沢山の人がお祈り添えをして下さった。田中さんもその一人であった、どうでも幹三郎ちゃんこんどだけは助かって貰わんならん、そのためには日々起きてくる問題の一切を、そのための修行として受けると言う事にさせて頂いたら、もう何もかにもが有難かったとその時分の事を述懐しておられます。
 だから田中さんあん時の気持ちですよ、自分の娘のことやら難儀な事やらはもう直にその事ばかり心配する、それはあの時のような尊い願いの中心が外れておるからなんですよ、合楽教会の大発展を祈ってご覧なさい、願ってごらんなさい、これくらいな修行はそれこそもう当たり前じゃなくてもう、有難く受けるんですよという訳です。どう言う事が起って来てもそれこそ茶碗一つ洗いよっても、他所にお手伝いにやらせて頂いておっても、もうこれは幹ちゃんが助かられる事の修行だと思うたら。
 それが楽しくて有難い位になる。起きて来る難儀な問題はかえって有難いと言う事になってくる。私はそう言う本当に普通で言うならば、私のような難儀なものがあろうかと、ふと自分の人間心に返ったら思うような時にです、ひそかな信心そのひそかな信心の内容がただ今申します様な、おかげを頂いたら素晴らしいこれはもう絶対に、神を杖につくと言う事になると思う、楽じゃと言うおかげに繋がると思うです、同時に昨日美登里会ででもお話させて頂いたんですけれども、まずは自分自身を本当に知る事。
そう言う時にギリギリの私を知ること、無力無能であることは勿論私のような人間と言うものを知ること、信心は自分を知る事とさえ言われるのですから、そう言う時にいよいよ自分と言うものをギリギリ掘り下げて見るところからです、それでも神様はこの様に助けて下さるんだ、この様におかげ下さるんだと言うところから、有難い事になってくる。先日朝食の時に私はこげな贅沢をしてよかろうかと、高橋さん久富さん家内と四人で朝の朝食させて頂きます。
 高橋さん言われるんです、親先生これは一つも贅沢ではないです、まあだ贅沢しよる人はうんとありますよ、成程そう言う意味でならです、朝から鯛の刺身でお酒を頂くと言う事じゃなか、それこそ味噌のお汁にお野菜なんか二点三点それに漬け物があってらっきょ位かある位なもの、けれどもそれが私にとってはもうそれはもう本当に実感です、毎日それを感じるんです、こげな贅沢な事でよかろか、思う位ですから私の心の中はいつも勿体ない、こげな贅沢させて頂いてよかろうか。
 私のような者と言う事が分かっておるから、すべてが贅沢に見えるのです。だから勿体ない事じゃなあ、勿体ない事じゃなあ、こげな贅沢させて頂いて、勿体ない事じゃなあと、勿体ない事じゃと言うのがいうなら私の信心の中身になっておる、自分と言うのが分かる時に、とてもとてもこれ位の修業じゃ、これ位のことでは相済まんと言う心、それこそ上を見ればきりなく、下を見れば限りがない、その中にある自分と言うものがです、人から見れば気の毒じゃある。
 あげなもんでん食べよんなさると言うことであっても私にとっては贅沢、私にとっては勿体ないのである。それにはまず自分が分からなければそう言う心は起きてこない、それこそひそかにして信心せねばならないようなとき、それこそ日にちが経てばこういう苦しみも、薄らぐであろうと言う時を思わねばならないようなとき、私はそう言う自分を発見するような信心をさして頂いたら、いわゆる勿体ないと言う心もわいてくるでしょう。又は大きな願いのためのこれが修行と思うたら。
 まだまだ軽い位の心しか、おきてこないそういう、気持ちこそが楽な心である。それには神を信ずるからこそそれが出来る、神を杖につけば楽じゃと言う事は、神を信ずる生活の事なのです。そう言う意味の神を信じれれる私は、一番よい機会に恵まれているとさえ、言えると思うです。難儀な時には、そこを私はひそかにして信心はせよであり、又は神を杖につけば楽じゃと言うような、信心をその時こそ今こそ、身につけて行かねばならないときと思います。
   どうぞ。